大連
神谷 興士
あのアカシアの大連で昭和二十年八月十五日を迎えた。快晴かつ非常に暑い
日であった。母親に家の中に居るように言われていたのを振り切って通りへ出
てみたものの人っ子一人いない異常な静寂がおおい、すごすごと家に戻ったの
を思い出す。父親は直前の現地応召で不在であったが、幸いなことに戦地に着
く前に終戦、除隊。旬日を待たず帰宅となりほっとした。だが、それからが混
乱の始まりである。ソ連軍の進駐。日本人居住地の接収。何家族もの共同生活。
つぎつぎと引き揚げる同胞とのあわただしい別れ。各地に発生するソ連兵によ
る略奪の話。不凍港といわれた大連港の昭和二十年冬の凍結、新聞、ラジオな
どマスコミのない生活などなどが脳裏を去来する。
さて、わが家であるが、父親の勤めていた満鉄の鉄道技術研究所は、ソ連軍
に占領され、上級研究者は本土への引き揚げが認められないとのことで、数十
家族とともに残留することとなった。紆余曲折を経て漸く昭和二十三年夏、全
家族無事本土引き揚げとはなった。ただ、何時帰国できるともわからない状況
下での三年間、親達の不安と望郷の念は子供には想像できないものがあったで
あろう。最後に家を離れるに際し、持って帰れないミシンなどの家財道具を知
り合いの中国人に譲った光景を今でも妙に覚えている。
以上が思い出すままの断片的な「少国民の戦記」であるが、いまでも気にな
るのが希望して残留した人達のその後と行方である。わが国の南満州経営は一
九〇五年のポーツマス条約からであり、終戦時で四十年を経ており、三代目に
もなろうという市井の人達にとっては、どうなっているか解らない本土より安
全に見えたむきも少なくなかったということであろう。その後、朝鮮動乱や四
人組の跳梁とがあるわけで『大地の子』(山崎豊子著) を読むにつけ胸の痛 む思いがする。わが国の南満州経営は、日露戦争後ロシアから継承した権益を
ベースとしており、ポーツマス条約は、関係諸外国も認めた国際法上問題ない
ものであることを忘れてしまった人が多い。『かくて昭和史は甦る』(渡部昇
一著) ではないが、戦前はすべて悪とするのではなく、明治維新以降のわが 国の近代史観を正しく磨き語り継ぐことが非常に大切になって来ているのでは
ないだろうか。いろいろな人の戦後五十年があった。私の戦後五十年はやはり
南満州に在った市井の人達の五十年である。
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神谷興士
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昭和14年8月10生
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東京都出身(大連市生まれ)・福岡市在住
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〈好きな言葉〉「心明るく、心広く、心強く」