艱難汝を玉にす
大迫 忍
 二十年前、創業者の父とともに二人三脚で血を吐くような苦難の道を乗り切っ たことを、私は生涯忘れることはないだろう。
 昭和五十年。当時三十歳、専務職にあった私は、社の浮沈にかかわる極めて ショッキングな事件に遭遇した。白地手形紛失事件が発生したのである。父は 直ちに役員会で対策協議に入った。先ずは事件のあった関西支社を閉鎖すべし という意見が大勢をしめた。いろんな意見が尽きると、父は「お前はどうする つもりだ」と私に意見を求めた。心に期するところがあり「閉鎖はしない。私 は解決に死力を尽くしたい」と答えると、父は「どうせ後を継ぐ立場だ、やり たい方法でやってみろ」と私にこの難問処理を命じた。私は直ちに関西の拠点 として神戸市に居をかまえ、手形回収に取りかかった。手形を追うというのは、 当初雲をつかむような苦労と焦りを伴った。何処から?幾ら?出てくるのか。毎 日が極端な緊張の連続だった。
 父は資金調達に、或いは供託の準備に懸命だった。役員は、とにかく売上げ の増加に最大限の努力を続けた。私は神戸と九州を往き来しながら随分怖い場 面にも遭遇したが、一件一件気の遠くなるような厳しい交渉を続け、その場で 決断を下しながら回収に走り回った。
 紛失手形の中で一枚でも未回収があっては大変である。若いとはいえ血尿を 出す程のハードな毎日。父もさすがに心労がたたり入院したが、それでも父と 私は二人三脚で必死に頑張った。
 最後の一枚を回収し終えた時の喜びと安堵感は、筆舌に尽くし難い苦難の結 果として、例えようもないものがあった。事件が起こってから既に二年半を経 過していた。
 父はこのことで寿命を縮めたのかもしれない。しかし苦難の道を辿りながら、 父の経営姿勢や数々の教訓は、現在の私の経営の在り方に大きな影響を与えて くれたと考えている。父は言った。「苦難を解決するのは他人ではなくオーナー がやるべきだ」と。
 自ら信ずる道を前向きに、ひたむきに歩む。それが問題解決に通じることを 学んだし、そういう努力には必ず援軍が現れるということも知った。銀行のご 支援、友人を始めとする私共に関わりのある多くの方の励ましや援助がそれで ある。
 「艱難汝を玉にす」と言う。私は事件から多くのことを学んだ。
大迫 忍
昭和20年8月13日生
大分県宇佐市出身・北九州市在住
〈好きな言葉〉「雨ニモマケズ」